深圧 SHIN-ATSU 松本深圧院グループ 私達は深圧という特殊技術により、お客様それぞれにあったQOL(Quality of Life)の実現に貢献します

体験談 第1弾! JUNKOさん 1 

鹿児島のJUNKOさんから体験談をいただきましたので、4回シリーズでそのまま載せてみますね。
知り合ったのは5年ほど前だったか。
JUNKOさんがかなり落ち込んでいる時でした。
今はKUMIKOさんと元気に笑顔で話をしているのが印象的です。
JUNKOさんは犬が大大大好きなんですよね。

皆さん、こんにちは!
松本先生のブログの一読者で松本先生にお世話になっています。JUNKOと言います。
恥ずかしながら体験談もどきを書かせて頂、
出来るなら皆さんと分かち合えたらと考えて
投稿させていただきました。
宜しく御願いしますね。

私が股関節症の痛みを自覚したのは小学校低学年
の徒歩での遠足の後でした。
帰宅早々、「脚が痛いよぉ~」と母親に訴え父親
がマイカーに乗せて近くの医院に連れて行ってくれました。
「この子は生後10ヶ月で歩き始めたのですが歩き方
が不自然だったので整形を受診させて半年間、ギブス
を着けさせて後に半年リハビリに通いました。」
「先天性股関節脱臼だと診断されたのですが完治
したと聞いているのに痛いと言います」
父親はおよそこのような内容の事を医師に話して
いました。

その時の診断は「筋肉痛です。もっと鍛えて下さい」
と言う物でした。

幼かった私はその後、大した痛みも無かったので
忘れるとも無く忘れ、普通の子供同様に駆け回り
元気一杯の幸福な時期を過ごしました。

中学ではテニス部に在籍して人並みの青春時代
を過ごし、高校では体育の時間の砲丸投げで体育教官よりも遠くへ投げると言う女子生徒でした。
その甲斐あってか教官から「ソフト部に来い」と再三
お誘いを頂いた事もありました。(笑)
ようするにマッチョな女の子だったのです。

しかし高校二年の修学旅行で京都のお寺回り
をした夜、脚の痛みから眠れず、自ら整形外科を受診
しました。

寮生活をしていた私は寮を出て地元の整形外科に通い「物療」と言われる部屋で治療を受けました。
治療は当時、悪いと言われていた右足の牽引と電気治療でした。
その時の院長先生は父親の友人で親身な態度で
私にこう言いました。
「JUNKOちゃん、とにかく大人になって結婚して子供を
産み終えたら人工関節の手術をしょうね。」
「この病気は進行性だから今、手術をしても仕方無い
から、、、、湿布を貼って、時々物療に来なさい」

若かった私は事の重大さを認識せずに遠い遠い先の
事だと人事のように考えていました。
両親共この院長先生を信頼していましたので現在の
ようにセカンドオピニオンなど考えつきもしなかったようです。
やがて大人になり脚の事が心配でたまらない両親
(特に父)は「就職はせずに家業を手伝いなさい嫁に
だって行かなくても良いからね。」と言い来る縁談を全て「未だ早い」と言う理由を付けて断っていました。
私は自力で21歳の時に某企業に就職しました。

縁は異なもの味なものと言いますが(笑)
配偶者と縁あって結婚しました。
股関節の事も承知して共に歩いてくれています。

結婚20うん年を過ぎた今までには本当に色々な事が
ありました。

結婚後三年目に長女を授かりました。
この頃から三度目の脚の痛みが始まり乳母車や
コンビラックなどを上手に使って夫の協力もあり子育てをしました。

幼稚園の行事や運動会など脚の痛い事が続き
また超A級の難産だった事も相まって二人目の
子供はためらい、悩んでいました。

長女が小学校に上がり落ち着いた頃
二人目を妊娠、婦人科を受診するまでは
産み育てる自信が持てず暗い気持ちで婦人科の
門をくぐりましたが「おめでとう!予定日は11月です。」
と言われた途端に不安やためらいが吹き飛び喜びが
湧き上がり頭の中には
「パラパラパァ~♪」とバックミュージックが流れました。

これが母性本能と言う物なんだと実感しました。

しかし本格的に脚の痛みに悩まされたのは次女を
出産してからでした。
二人共、2560グラムと2040グラムと小さく産まれた
にも関わらず相変わらずの難産で、、、、


つづく