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新陳代謝 - 忘却のススメ

 

今日はいつもとは趣向を変えた内容です。

 

 

 

 

最近、ちょっと物忘れが激しくなり・・・そんなことがきっかけで脳の新陳代謝について考えていました。

 

そこで至ったのが、

 

“忘却のススメ”

 

少々長い内容ですが、ご興味あればぜひ!

 

 

新陳代謝は、身体にっても脳にとってもとても大切な機能・作用であることは誰もが感じることだと思います。

 

身体的な新陳代謝としては、汗をかくことであれ、排泄であれ、「外」に出すことが大切です。

 

「内」に入れ過ぎてばかりいると、健康を損ないかねません。

 

頭の新陳代謝でもそれは同じことで、知識や情報を摂取ばかりしていると、渋滞を起こして思考の整理もおぼつかなくなるばかりか、精神は自家中毒を起こしかねません。

 

こちらもやはり、適度なアウトプット、排泄が必要であり、それは例えば、話す、書くといった手段を通じて内なる思考を「外」へ解き放つことです。

 

「入」と「出」の両方が大切であり、両方を実行することによって結果的に健康な身体、頭でいられるのであろうと思います。

 

そんなことを考えているとき、ふと思いました。

 

新しいものを「入れる」と言っても、自分は最近物忘れがひどいし、とみに記憶力が落ちている・・・よって、何かを学ぼうとしてもなかなか覚えられない。

 

これでは新陳代謝にならないではないか?、と。

 

一方で、この発想は、ものを覚える記憶力がよい人が頭の良い人という固定観念にもとづいており、いってみれば暗記依存、忘却恐怖症にとらわれているようでもあります。

 

ですが、「忘れる」ことは悪いことなのか?

 

新陳代謝がうまく進むには古いものが「外」へ出ていく必要がありますが、「忘れる」ことも実は立派な代謝機能なのではないか?

 

思考の連鎖でそんなことを思うに至ったのですが、そのベースには、以前に読んだ、英文学者・言語学者である外山滋比古さんの『ライフワークの思想』(ちくま文庫)という本がありました。

 

この本の中に、「忘れる」ことについて書かれたとても示唆に富んだエッセーがあるのですが、暗記依存と忘却恐怖にとらわれてきた身にとしては、これを読むとハッとさせられます。

 

今回、再読してみて、これからの学習法についていい気づきを得ることができたのですが、とても面白いエッセーですので、以下にご紹介したいと思います。

 

ちなみにこの本はいくつかのテーマに分かれたエッセーを集めたものですが、中心には人間と文化に対する深い洞察があり、人生をライフワーク・フィナーレの思想で眺めた考察は、人生の折り返し地点を過ぎた私のような人間にとってはとてもいい励ましになります。

 

(以下「 」内は全て上記書からの引用)

「知覚の作用は、無意識的にあるいは意志的におびただしい外界の刺激を受けている」が、「入ってくるインプレッションの方が出ていくエクスプレッションよりも圧倒的に多い」ため、「この両者のバランスをとる役割を果たすのが忘却」であり、忘却はいわば「かくれた表現行為であり創造活動である」と指摘しています。

 

つまり、入ってきたものは忘却によって「解体、変容、変質」させられるが、「そこに人間精神がたくまずして行っている創造を認めて」よく、「一般に創造というものは忘却と意外に近い関係にある」という発想はとても面白いものです。

 

また、コトバとそれが現わすものごとは実際には分離関係にありますが、忘却はおもに「コトバの問題」をさしており、「コトバの眼鏡を通じて見える世界を現実と混同する知識人の錯覚は、教育を受けた人たちがあまりにも記憶能力に依存した認識を行っていることに起因する」との指摘は、この本のオリジナルは1978年に出版されたものであるという時代背景を考慮すれば、既にこの頃から教育における詰め込み主義が問題になっていたことがうかがえます。

 

「摂取」ばかりの学校では、新陳代謝にとって重要な排泄作用でもある「忘れる」ということを教わることはないため、せっかくの知識を活動の源泉にすることができず、「優等生といわれるような頭の持ち主が概して創造的でない」。

 

忘れることは努力してできることではないが、刺激のつよすぎるインプレッションを処理しきれなければ精神的不調をきたしかねず、「忘却による調和」という「積極的な考え方」への転換を説いています。

 

時間の経過による忘却には、空間・時間のどちらにも、ものの姿を変え、消して行くはたらきがあることを「黒板ふき(エレイザー)効果」と呼び、ものごとが本当に理解されるには「このエレイザー効果をもった時空を経過してからである」という指摘、

 

そして、

 

一夜漬けの学習のような典型的な「そうでない学習」ではすぐに忘れてしまうし、「忘れにくくするには、時間をかけて、忘れやすくしながら、覚えること」、言い換えると、「生活の中へエレイザー効果のある時間、空間をなるべくたくさんもちこむことが理解を促進することになる」という点はとても納得できます。

 

ものごとをよく覚えている人は経験によって未来を予想できるが、その反面過去にこだわりすぎるきらいがある一方で、「忘れっぽい人間には安定感が乏しいかわりに、流れる水のごとく自然でものに悪く執着しないよさ」がある。

 

ある意味でそこに「解脱」に似たものをみているのですが、そういう「無常観を特色としている」のが日本の文化であり、「禅などのねらっている解脱や悟道は、コトバの理をはなれ、ものの実相にふれること、ものごとに執しないことを理想としているように思われる」との指摘より、活発に忘れることを通じて、しばられることのない、自由で変化可能な「新しいものを迎えるゆとり」をもてる心でいることの大切さを述べています。

 

小さな知識を大事にするあまりに新しい大きなものが現れてもそれを摂取することが難しくなることがないように、「頭はいつも文字を吹き消してある黒板、何も書かれていない白板の状態であることがのぞましい」という主張はとてもうなずけますし、ちょっとしたことでもいいと思ったことは何とか「忘れない」ように努めてばかりいる自分のせこさを痛感します。。

 

わたし自身そうなのですが、「忘れる」ことはいけないことだという先入観をもっている人は多いと思います。

 

そしてまた、「すべての事象を言語に置き換えて処理する」教育を受けてきた者としては、何ごともコトバという記号で覚えなければいけないと思い込んでいる。

 

よって、コトバを「忘れる」ことは、身についてないと同義にとらえ、一生懸命忘れないように努力する。

 

講演などで、メモをとることばかりに苦心している・・・これなどは「忘れない」ようにしようと過ぎて、心から聴いていない。

 

メモしておけば忘れずにすむという変な安心感からか、私の場合、そういうときに限って肝心の中身・要点が残っていないものです。

 

学生時代の授業、勉強の一環になってしまっているようです。

 

でも、外山さんが述べているように、忘れることが創造の源泉でもあるならば、忘れることは立派な新陳代謝の一機能であり、まずもって恐れる必要はない。

 

日常生活レベルで覚えておくべきことというのは、大したことではないことが殆どで、だからこそ無理に覚えるというよりもメモなどしておいて、それを頼りに処理をすれば済むもの。

 

本当に学びたいことは、消化と同化の作用を通じて骨肉化していかなければならないことを肝に銘じ、時間をかけて、忘れやすくしながら覚えることによって、身につけて深層化させたい。

 

年を重ねたいまだからこそ、暗記、覚えることに固執するのではなく、「忘れながら」覚え、学ぶことに取り組みたいし、それによってもっともっと深く学べるような気がしています。

 

もうそろそろ暗記至上主義的な思考から完全に脱したいものです(苦笑

 

2022年12月4日

 

横須賀 観音崎

 

 

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